ルールで遊ぶな

私達は気づかないうちにルールに囚われている。当たり前のようビルに閉じ込められている。制服を着ればその人間になるように仕向けられている。ルールがへばり付いて取れない。けれどもそれは仕方のないことだ、狭い国で生き延びる術を私達は幼少期から刷り込まれてそこから個性を導き出すのだから。

しかしファッションに限ってそれは間違った概念となる。むしろ常識などという測りは邪魔なのである。もう少し意味を噛み砕いて声高に叫ぼう 「デタラメに遊べ」 と。ファッション業界が堅苦しくなり、保守的になっているからこそ今、もっと表現していい。”ナシ”を”アリ”に変えるのは他でもない私達だ。

他の国ではどうなのだろう、ルールに縛られているのか。アントワープ王立芸術アカデミーは世界で起こった1年間の事件をイヤーブックに挟んでいる。セントラル・セント・マーチンズ美術大学ではキアラという学生が中東で問題になっている東南アジアの女性をパスポート取り上げて奴隷のように働かせている現状から洋服に生活で使う道具をくっつけ発表した。モロッコの都市マケラシュではイスラムの装いをした女性が力強いバイクに跨り、ポーズを決めている。それを記録したケシュ・エンジェルズ。そして写真家は同じ北アフリカのモロッコ出身ハッサン・ハジャジ。写真の額縁にアンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶のような日用品をモチーフにしてチグハグ感を演出している。

もう狼煙は十二分に上がっていると思う。ファッションとは女性を巡る問題であり、女性がどのように社会と闘い、生きてきたか表現することだ。自分自身をどう表現し世界と接していくか、服を着こなす以上に生きる姿勢が大事なのである。

今、東京のストリートでよく見かける再構築してみたはいいが白線の上から はみ出さないスタイルに畏怖の念を贈ろう。壊しきれず右に習って安堵してはいないだろうか。強く焦がれるほど服に着せられマネキンへと変貌してしまう、満たされてはダメだ。常に枯渇しなくてはならない、思慕思慕と私は思う。

 

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